もしかして、世の中はひっそりと「哲学ブーム」でしょうか?
最近は哲学の解説系YouTuberも増えてるし、アバタローさんのように自著まで出版するほど人気を得ている人もいる。高校の授業でも哲学を扱うようになったから、昔に比べると哲学の門は大きく開かれているのかもしれない。
ぼくがはじめて哲学の授業を受けたのは、かれこれ40年も昔、大学の一般教養課程でした。でも、覚えていたのはデカルトの「我思う、ゆえに我在り」だけ。あとは、まったく覚えてません。
還暦も近くなって今さら哲学の本を読み始めてるんだけど、その哲学者の思想がむずかしいという以前に、文章がものすごく読みにくい。古典に取り組もうとする初心者の誰もがぶつかると思うそんな壁に、ぼくも今まさに激突しています。
そこで、古典と呼ばれる哲学書を読むための2つの方法を考えてみました。
哲学書を読破するっぽい方法その1 冗長な部分は読み飛ばす
古典作品が読みずらいのは、ムダな文章が多すぎることに尽きるんじゃないでしょうか?
まぁ~、グダグダと余計なことばかり話しますね。まるで読者の忍耐力を試しているかのように、あーでもない、こーでもないと駄文がダラダラ続くのが古典作品の特徴です。とくに西欧の哲学書は、ほとんどこのパターン。
もし今の時代に昔の哲学者たちが蘇って、新しい本の原稿を出版社に持ち込んだらどうなるでしょう?
編集者:「え~と君、デカルトくんだっけ? これじゃ、なに言いたいかサッパリわからないよ」
デカルト:「いえ、じっくり読んでいただければ、きっとわかると思います」
編集者:「今どきね、読者は暇じゃないんだよ。もっと簡潔にズバッと主張してくれないと、誰も読んでくれないよ? まずはSNSで現代風の書き方を勉強してみようか」
デカルト:「……」
みたいなやりとりになるのは間違いありません。もしかすると、原稿をペラっとめくっただけで突き返される可能性も大です。
それだけ古典の哲学書はムダな部分がてんこ盛りです。「冗長」という単語は哲学書のためにあるんじゃないかと思うほどです。だから哲学の解説系YouTuberが人気だったり、解説書がロングセラーになったりしてるんでしょうね。
さらに、西欧の哲学書は翻訳が意味不明すぎます。
なんかもう、同じ日本人が書いた文章とは思えないほど、理解に苦しむ文体がはびこってます。もしかして「オレって賢いだろ?」と言いたいのかもしれませんが、難読な文章がエライと思っているような翻訳者が多すぎます。
そういう文章を書く翻訳者って、たいてい学者ですね。彼らの世界では、いかに難解な文章を書けるかが必須スキルのようです。
もちろん、そうした難読文をじっくり読むことにもメリットはあります。読解力と集中力が鍛えられることは間違いありません。
グダグダとした冗長で意味不明な文章の中から、どこが著者の主張で、どこが根拠で、どこが事例なのか? それらを一つひとつ分別しながら読み進め、かつ、日常会話ではぜったい聞かないような単語やことわざの意味を調べつつ読み進めていくのは壮大な暇つぶしに最適です。もし、ぼくが刑務所に入ることになったら、自由時間は哲学書を読みたいと思うほどです。
あるYouTuberが、最初の1年は数冊しか哲学書を読めなかったけど、2年、3年と経つうちに年間で数十冊は読めるようになったと言ってました。でもそれって、何冊も読んでるうちに重要じゃないところは読み飛ばしていいとわかっただけじゃないの?
ダラダラと長い理由づけはスパッと飛ばしてしまえば、一冊の哲学書を読破する時間はグッと縮まります。一文字ずつ読み進めるという考えを捨ててしまえば、ほんとうに読まなければいけない部分は、その本の半分くらいになるはずです。
ということで哲学書を読破する一つめの方法は、ムダな部分は読み飛ばすです。
哲学書を読破するっぽい方法その2 入門書だけで済ませる
邪道でしょうか? でも、けっこうアリじゃないかと思います。
一冊の哲学書には、日本語で書かれたものだけでも何十冊もの解説書があります。それだけ哲学書が意味不明ということの証ですし、だいたいどの解説書も「この本のキモはここ!」と、同じところが挙げられています。
だったら、解説書だけ読めばいいんじゃね?
「でも、それってどうなんだろう? やっぱり、解説書で大筋をつかんでから原典にあたるのが本筋じゃない?」という声が聞こえてきました。それは、ぼくの心の中から聞こえてきました。
たしかに、それが王道かもしれません。しかし、そんな時間のかかる読み方をしていたら、ほんの一部の哲学書しか読めません。
若い人はそれでもいいでしょう。これからまだ50年以上もある人生を使って、プラトンからサンデルまで少しずつ順に読み進めていくこともできるでしょう。でも、もうすぐ還暦を迎えるぼくに、そんな時間はありません。
それは多忙な現役世代にとっても同じです。読書にあてられる時間は少ないのに、入門書を読んでから原典にあたる読み方は、時間のムダになりかねません。なぜなら、原典を読んでも「ああ、ここが解説書にあったところだな」と、そこしか印象に残らないからです。
だったら入門書だけで済ませながら、どんどん他の哲学書にあたっていくほうが効率いいと思います。というとまた「いや、哲学ってのは効率なんて考えて読むもんじゃないんだ」という声も聞こえてきました。もちろん、ぼくの心の中から。
でも最初に入門書だけ読んでいく方法は、哲学界の全体を見通すためにも有効です。最初は広く浅く、次第に狭く深く掘り下げていくほうが理解しやすいのは間違いありません。そうすれば「プラトンって言ってることがスピリチュアル系みたい」とか「超人になれ? 気が狂ったニーチェに言われたくねーよ」など、それぞれの哲学者に対して自分なりのイメージを持てます。
そうして、自分が共感できそうな哲学者の原点にあたったり、あえて反発を感じる作品を読んでみるなど、自分なりに哲学との関わりをもつことができるかもしれません。
すいません、エラソーに言いました。まだ自分自身がそこまでのレベルに達してませんが、そんな感じでいいんじゃない? と思ってるんで書いてみました。
今たくさんの人たちが哲学を求めるのは、この時代への危機感から?
現在はロシアとウクライナやイスラエルとパレスチナの紛争に加えて、中国による台湾への侵攻リスクが懸念されているなど、世界情勢は第三次世界大戦に向かって進みつつあるように見えます。また、国内でも不法滞在の外国人による治安の悪化や悪性インフレと増税による生活苦など、人々の心に大きな不安が広がっています。そんな不安が、多くの人たちの手を古典作品に伸ばさせているようです。
ほんとうなら哲学なんて面倒くさい学問は、社会の片隅に追いやられているほうが平和でいいのかもしれません。むずかしいことなんて考えなくても、明日も明後日も今日と同じように暮らしていける。そんな安心があれば「実存とは?」なんて考える必要ありません。
でも、きっと今は新しい時代に変わりゆく過渡期です。次に来る時代が今までより少しでもいい時代にできるかどうかは、今を生きるぼくたちが、この社会を、これまでの世界をどう捉えなおしていくかにかかっています。そうした人たちが一人でも多くなれば、次の時代を人類史上で一番マシな時代にできるかもしれません。
しかし、これ以上ぼんやり生きていれば誰かに利用される生き方が続いたり、それでも現実から目を反らそうとする大衆に反逆されたりして、二度と平和な時代は築けないかもしれません。だから哲学でちょっと頭に汗をかいて、世の中のことや自分のことについて考えなおすことが今こそ求められているんじゃないかと思います。
もしかすると、これから哲学書を読んでみようかなと思っている方もいらっしゃるでしょう。たしかに哲学の敷居は高いですが、門は大きく開いています。まずは気楽に入門書から入ってみてはいかがでしょうか?