書籍『「お迎え」体験』レビュー

マンガ・書籍レビュー
記事内に広告が含まれている場合があります。
スポンサーリンク
スポンサーリンク

書籍概要

死を目前にした人の前に、すでに亡くなった人が訪れる。日本では古くからよくある現象として受け止められてきた「お迎え」現象ですが、これまで医療の世界でその実態が調査されることはありませんでした。

本書は在宅緩和ケアを専門とする医療法人が、1500人以上の遺族に対する調査を通じて「お迎え」現象をはじめてアカデミックに分析した稀有なレポートとなっています。

スポンサーリンク

書評・レビュー:42%の故人が「お迎え」を体験していた

日本の家庭は古くから3世代同居が一般的で、家族が自宅で亡くなるのはあたりまえのことでした。

その過程では幼い子どもたちも家族が少しずつ死に向かっていく様子を目の当たりにし、最期は他の家族と一緒に臨終の場面に立ち会うことになります。そんなふうに、かつての日本人は人の死を日常の一部として受け止めてきました。

そうした中で、ときには死を間近にした家族が「死んだオバアちゃんが来た」とか、「戦死したオジサンが来ていた」などと言うこともあり、そうした言葉に家族は「お迎えが来たんだね」と死期が近いことを悟り、心の準備をする時間を持つことができたのかもしれません。

しかし戦後は核家族化が進むと同時に全国各地で医療施設が整備されると、病院で亡くなることがあたりまえになり、人が死にゆく過程は見えにくくなりました。そしていざ臨終となれば、悲しむ暇もなく葬儀業者があらわれ、混乱の最中でも強制的に葬儀の準備に追い立てられます。

そんなふうに人の死がシステムに組み込まれてしまった現代では、死を控えた人が「お迎え」を体験しても、幻覚や妄想と片付けられてしまうかもしれません。しかし「お迎え」体験は本人にとっても家族にとっても意味のないことでしょうか?

宮城県内で呼吸器外科医として勤務していた故・岡部健(たけし)医師は、自宅で最期を迎えた患者の多くが穏やかな最期を迎えていたことから「爽秋会 岡部医院」を開いて在宅緩和医療に転身。患者の自宅を訪れる日々の中で、岡部医師は「お迎え」がけっして珍しい体験ではなく、死にゆく人たちの多くに共通した体験であることに気づきました。

本書は岡部医院が過去に行った4回の調査を社会学的に分析した内容を、岡部医院仙台医院長の河原正典医師が上梓した一冊です。

ただし、本書は「あの世」の存在を考察する目的で書かれたものではありません。また、岡部医院では「お迎え」体験を次のように定義しています。

終末期患者が自ら死に臨んで、すでに亡くなっている人物や、通常見ることのできない事物を見る類の体験

2007年に行われた調査では、42.3%の故人に「お迎え」体験があったと遺族が回答しています。しかし家族に心配をかけまいとして口に出さなかったり、家族が「お迎え」体験に気づかなかったことも考えると、実際にはもっと多くの故人が「お迎え」を体験していた可能性もあります。

では誰が「お迎え」に来たのかというと、圧倒的に多いのはやはりすでに亡くなっている家族です。

2007年度調査より
  死者(人) 生者(人)
21 0
28 1
夫・妻 13 0
兄弟姉妹 19 3
息子・娘 5 3
その他の親戚 14 4
友人・知人 16 15
それ以外 2 22
無回答 10 4
合計 128 52

やはり「お迎え」に来るのは、祖父母や両親、兄弟姉妹など身近な家族が多いのは納得できるところでしょう。

その一方で「お迎え」が友人・知人やそれ以外の他人になると、まだ生きている人たちが現れることにも目を引かれます。まだ生きている人を見るのは、最期に会いたい人を夢に見ていた可能性もありそうです。

また、ここには記していませんが、花畑やトンネルに居たり、神や仏を見たなど臨死体験とも共通する回答があるのも興味深いところです。

臨死体験に関する報告は「お迎え」現象よりも豊富で、古くはエリザベス・キューブラー・ロスの他に、日本でも知の巨人と言われた立花隆の『臨死体験』、最近では3度の臨死体験をしたという木内鶴彦氏の著書など、世界じゅうで数多くの体験が公表されています。

これらの豊富な臨死体験に比べると「お迎え」体験のレポートは非常に稀有で、その意味でも本書は数少ない貴重な一冊と言えます。

しかし、あくまで本書は死後の世界を考察するのが目的ではなく、「お迎え」体験をとおして、死を控えた家族との豊かな関係性を育んでいくことに主眼が置かれています。

「お迎え」現象の事例

本書の第3章では、これまでに岡部医院が調べた「お迎え」体験の事例が数多く紹介されています。ここでは、その中からいくつか選んで紹介しましょう。

亡き家族との対話

本人が亡くなる4、5日前から、玄関に亡くなった母が来ている……兄が来ているから、私に早く玄関に出るように(言われた)。私が行こうとするともう帰ったよ……にこにこ笑っていましたね。【回答者:63歳(娘)、故人:89歳男性】

これは「お迎え」体験の典型的な例と言えるのではないでしょうか。死期を迎えた人にだけ見える家族の霊は怖いものではなく、むしろ安心すると答える人もいたそうです。

「お迎え」を拒否した事例

仲の良かったすぐ近所の友人が、本人が亡くなった年の5月に亡くなり、その友人が寝ているベッドのそばに来て顔をのぞいたり、その人の家の裏にある木の陰から、遊びにおいでと手招きされる。いくら仲の良かった友人でも毎日来られるのは、イヤだなぁと言っていた。【回答者:50代女性(息子の妻)、故人:80代女性】

友引の日に葬儀をすると連れて行かれるというのは迷信で、最近では気にする人も少なくなったと言われます。しかし、こういう例を聞くと、できることなら避けたほうがいいと思ってしまいますね。

家族が体験した事例

亡くなる数分前に、亡くなった祖父母がみえて「むこうでめんどうをみる」といっていた。父のもとに行くと、様子が変で体温、脈が……【回答者:50代女性(娘)、故人:80代男性】

本人ではなく家族が体験したという、割と珍しい事例かもしれません。親御さんの霊にすれば、80歳を超えた息子でも「我が子」という気持ちは変わらないようです。この故人はきっと懐かしい両親に会えて、喜んで旅立たれたのではないでしょうか。

死期を悟った患者の例

亡くなる1週間位前に、亡くなる日を自分の口から言った事にはとても驚いています。【回答者:40代(娘)、故人:60代男性】

自分が逝く日を家族に予告する事例も多くあるようです。そう言えるようになったときは、もう自分の人生に対しても、死に対しても納得がいった状態になれているのでしょう。

遺族にとって「お迎え」体験が意味するもの

在宅で家族を看取ったことは、遺族の死生観に影響を与えることもあるようです。本書で紹介されている事例の多くは、家族が亡くなってからも身近で見守ってくれているというものです。

孫が(当時2才)母の写真をみて「おばあちゃんが笑っている」と言いました。母の写真は笑っていませんが孫には笑っているようにみえた……というより、笑ったのだと思います。それをきいて、死んだあとも母が私たちを見守っていてくれていると思いました。【回答者:60代女性(娘)、故人:80代女性】

小さな子どもには霊が見えると言います。わたしの母の葬儀のときも甥の息子が「おばあちゃんいた。笑ってた」と言っていました。おとなには見えなくても、故人は自分の葬儀にちゃんと同席しているのかもしれませんね。

「お迎え」は家族間の豊かな体験を共有する機会

本書は「お迎え」を体験した遺族たちの生の声をもとに報告されていますが、「お迎え」がないから故人が安らかに逝けないというわけではありません。また在宅で看取るのが良くて、病院で亡くなるのは不幸と言っているわけでもありません。

本書の著者・河原正典医師はエピローグにこう書かれています。

遺族の声を通して、読者の皆さんにも、いずれ訪れる大切な人との別れや自分自身の死に考えをめぐらしてもらいたい。これが、本書を出版した一番大きな理由でした。なぜなら、死を通して、「いまここにある」命の不思議さに気がつくのではないかと、私自身、思っているからです。

戦後の日本は経済の発展と共に物質中心の考え方が支配的になり、また医療の進歩によって「死」が遠ざけられたり忌むべきものとされてきました。

死んだら終わり、生きているうちに少しでもいい思いをしたいという刹那的な考え方が日本人の多くに根付いてしまった結果「今だけ、カネだけ、自分だけ」という、さもしい考え方の人も多くなったように思えます。

しかし長引く不況や相次ぐ災害で、今の日本人はもう一度「死」という誰にでも訪れる出来事について再考する機運が高まったように思えます。「死」について考えること。それは「生」について考えることにもなります。

誰もが在宅で看取ったり看取られるわけではありませんが、「お迎え」という古くからある現象は、日本人が古来からもっている死生観を再確認させるきっかけになるのではないでしょうか?