作品概要
『風よ、鈴鹿へ』は島田紳助の同名の小説を原作としたテレビドラマ。1988年11月5日、TBSの土曜ドラマスペシャル枠で放送。
タレントとして人気を博した島田紳助が、毎年夏に行われる「鈴鹿8時間耐久ロードレース」にベテランレーサーを出場させるために学生時代の仲間たちとレーシングチームを結成し、3年目に完走を果たすまでをドキュメント仕立てで描いている。
主なキャスト
- 島田紳助(本人)
- 千石清一(レーサー):川谷拓三
- 大塚茂春(レーサー):美木良介
- ラジオ局のディレクター:かとうかずこ
あらすじ
島田紳助は交友のあるベテランレーサー千石清一を、毎年夏に三重県鈴鹿サーキットで行われる「鈴鹿8時間耐久ロードレース(8耐)」に出場させるため、高校時代の仲間たちと「チーム・シンスケ」を結成する。
自分たちにはどんなメリットがあるのか? と問われた千石は、「その日、鈴鹿で泣けるよ」とだけ答えた。チームは資金調達などいくつもの困難を越えて出場を果たすが、その年と翌年はリタイヤ、3度目にようやく完走を遂げた。
感想・レビュー
1980年代は空前のオートバイブームと呼ばれた熱い時代でした。
1980年にヤマハから高出力な2ストロークエンジンを搭載した「RZ350・250」が発売されたのを皮切りに、各バイクメーカーからも刺激的な性能を持つ高性能なオートバイが続々と発売され、街や峠には皮つなぎに身を包んだレーサー気取りのライダーたちが溢れていました。
海外では世界グランプリ・ロードレース選手権(WGP、今のMotoGP)が盛り上がり、83年には王者ケニー・ロバーツに若きフレディー・スペンサーが挑み、21歳の史上最年少(当時)で最高峰500ccクラスのチャンピオンを射止めています。
国内のロードレースにも注目が集まり、1982年に公開された映画『汚れた英雄』は配給収入16億円のヒット。レースシーンで主人公の吹き替えを演じたヤマハの平忠彦が注目されるきっかけともなりました。
オートバイレースには概ね1時間以内で順位を決めるスプリントレースと、複数のライダーが交代しながら数時間の長丁場を競う耐久レースがあります。
『風よ、鈴鹿へ』の舞台となる「鈴鹿8耐」は耐久レースですが、ホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキといった4大オートバイメーカーのお膝元ということで、国内外で活躍するスプリントレーサーたちも大勢出場し、オートバイファンにとっては「真夏の祭典」でもありました。
各メーカーは自国での優勝を目指して威信をかけて挑むため、上位を占めるのはメーカー直属の「ワークスチーム」が多く、本作でオートバイを提供した「ヨシムラ」や「モリワキ」といった有力なプライベートチームでさえ上位入賞はむずかしくなっていました。
その中で「チーム・シンスケ」はレーサー以外は素人ばかりのプライベートチームとして出場し、参戦開始から3度目の1988年に初の完走を果たしています。
ドラマの冒頭で島田紳助がラジオのリスナーから「27位って、真ん中くらいの順位でしょ?」と言われるシーンがありますが、「8耐」はワークスチームでも完走が難しいレースです。
8時間という長丁場をスプリントレース並みのハイペースで走り続けるため、市販車ベースのマシンにかかる負担は大きく、ワークスマシンですらトラブルでリタイヤすることは珍しくありません。
また、現在の「8耐」は1チームにつき3人のライダーで走ることができますが、当時は2人で8時間を走るため、ライダーの疲労も今の比ではありません。真夏の太陽に焼かれたアスファルトの上をヘルメットや皮つなぎに身を包んで走るライダーにとっては灼熱地獄との闘いでもありました。
このドラマが放送された1988年、ぼくは社会人2年目。たぶんこのときはリアルタイムで観ておらず、数年後に再放送で観たと思います。そして今こうしてレビューを書けるのは、YouTubeに今作がアップロードされていたおかげです(著作権上の問題は置いといて)。
ぼくがオートバイに興味を持ったのは割と早くて、小学校のころでした。当時は暴走族が多かったころです。夕飯を食べたあとは自転車で繰り出し、我が物顔で走り回る暴走族を憧れながら眺めていました。
高校時代は50㏄しか乗れませんでしたが、大学に入ってすぐに自動二輪中型免許を取り、250㏄のバイクを乗り回すようになります。そのあとも当時は難関だった自動二輪大型免許に限定解除し、オートバイにどっぷりハマった学生生活を過ごしていました。
久しぶりに『風よ、鈴鹿へ』を観ると、当時の日本にあった勢いが伝わってきます。「チーム・シンスケ」が結成された1986年は「バブル景気」に突入した年、まさに日本がイケイケだった時代です。
自動車はトヨタ「マークⅡ」や「ソアラ」などの「ハイソカー」ブーム。バイクはレーサーレプリカと呼ばれた「ホンダ NSR250」や「ヤマハ TZR250」がしのぎを削っていたころです。日本全国の峠道はアマチュアライダーたちのサーキットと化し、事故も多発しました。
それでも多くの若者が高性能なオートバイに乗って、夢中で走ることができた時代でした。今は不況で節約志向も強いので125ccで充分という風潮もわかりますが、ハイパワーとハイスピードに憧れ、膝と命を削った時代を知っている身には少し寂しくも感じます。
今でも毎年夏になると「そろそろ8耐の時季だな」とは思いますが、顔も名前も知らないレーサーたちばかりのレースには興味がもてず、平忠彦とケニー・ロバーツが最後の30分で優勝を逃した85年や、「8耐男」と呼ばれたワイン・ガードナーのレースばかり観てしまいます。
あのころバイクと共に熱い青春を過ごした人には、ぜひ当時を思い出しながら観てほしいと思います。