なぜ、お経は呪文のまま? 日本に宗教改革が起こらない理由とは

雑記
記事内に広告が含まれている場合があります。
スポンサーリンク

新年、あけましておめでとうございます。と言っても、2024年もろくな年にはならないような気がしますね。

さて、前回は日本のおかしな慣習として、江戸時代から続く「身元保証人制度」を取り上げました。今回はさらに遡って、飛鳥時代(500年代)から続く日本仏教について考えます。

新年一発目のブログが仏教? と思われるかもしれませんが、それこそ日本の仏教が『葬式仏教」に成り下がっている証左かも知れません。

スポンサーリンク

まずは、日本に仏教が伝来した歴史をザックリおさらい

身内が亡くなって初めての葬儀となったとき、「ウチの宗派ってなんだっけ?」と慌てることも少なくないですね。

それだけ日本人は宗教に無関心と言えますが、その理由のひとつは、日本の仏教界が私たちになにも伝えていないこと、具体的には、お経が意味不明だからじゃないでしょうか?

本題に入るまえに、仏教の歴史をサクッと確認しておきましょう。

日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代ですが、その仏教は釈迦が入滅して500年くらい経ってからできた「大乗仏教」と呼ばれるものです。

釈迦が説いた仏教は、出家して修行の道に入る必要がありました。しかし、誰もが生活を投げ捨てて出家することはできません。

となると、仏教で救われるのは出家できた信者だけ。それも、修行に成功したごく一部のエリート信者だけです。

悟りへの道は、かなり狭き門ですね。

釈迦が入滅して500年くらい経つと、釈迦の教えを守って修行に励む守旧派と、もっと多くの人たちを救いたいと考える改革派に二分します。

改革派は自分たちを沢山の人々を救う大きな船という意味の「大乗』と呼び、自分のためにだけ修行する守旧派を小乗と呼んで揶揄しました。

※現在「小乗」という呼び方はNGらしいのですが、ここでは便宜上かんべんね!

大乗は釈迦の教えをベースにしながらも、大胆な解釈を加えて般若経や華厳経、法華経などの新しい経典を作り出します。

その後、仏教は中国大陸に広まりますが、小乗と大乗では内容が大きく違うため、当時の中国にいた僧侶たちは「なんじゃこりゃ?」と戸惑います。

そりゃそうですよね。キリスト教なら新約聖書、イスラム教はコーランと、基本的に一つの教えに依っているのに、仏教は小乗と大乗で主張がまるで違うので、中国の僧侶たちが驚いたのもムリありません。

結局、当時の中国は大乗仏教を選択したため、日本に入ってきた仏教は大乗仏教ばかりになりました。ここまでが、大雑把な仏教伝来の歴史です。

スポンサーリンク

なぜ、日本の仏教界はお経を日本語に訳さなかったのか?

日本に伝来したお経は漢字だけで書かれていたので、昔の僧侶たちは漢文のままでお経の意味を理解し読んでいました。そこまではいいでしょう。問題はそのあとです。

平安時代になると、漢字からひらがなとカタカナが作られ、ひらがなは主に女性が、カタカナは男性が使っていたとされています。

いずれにしても、平安時代から日本人は漢字・ひらがな・カタカナの3種類を使うようになったわけです。

さらに江戸時代になると、子どもたちは寺子屋で読み書きを習っていたので、日本人の識字率は男性で9割、女性で4割くらいあったといいます。

当時の諸外国と比べても高い識字率で、江戸時代に日本を訪れた外国人たちは、子どもがふつうに読み書きしているのを見て驚いたとも言われています。

それくらい江戸時代には日本人の多くが読み書きできるようになっていたんですから、その頃にお経を日本語に翻訳してもよかったんじゃないでしょうか?

なぜ日本の仏教界はお経を呪文のままにしているのか、その答えは海外の歴史にあります。

宗教改革で、誰でも聖書が読めるようになった

世界史の授業で習ったマルチン・ルターによる宗教改革、覚えてますか?

16世紀ころ、ローマ・カトリック教会が免罪符を売って金儲けに走っていたのをマルチン・ルターが批判したことから始まり、キリスト教がカトリックとプロテスタントに二分した大事件でした。

さらにルターが、神父など一部の人達しか読めないラテン語で書かれた聖書をドイツ語に翻訳したことで、ドイツの人々は初めて母国語で聖書を読めるようになりました。

その結果、今まで教会の神父たちが言っていたことが、聖書のどこにも書かれていないことまでバレてしまいます。

つまりローマ・カトリック教会は、民衆が聖書を読めないままにすることで自分たちの権威を保ち、人々をコントロールしていたわけです。だから免罪符を買えば罪が消えますよなんてウソが通用したんですね。

ウソのおふだを売って荒稼ぎする手口はカルト宗教と変わりませんし、いま話題になってる政治家たちのパーティー券裏金問題とも共通します。権力はかならず腐敗するとは、よく言ったもんです。

お経を呪文のままにしておきたい日本の仏教界

宗教改革の結果、ヨーロッパの人々はそれぞれの母国語で聖書を読めるようになりました。

直接、自分の目で神の言葉を知ることができるようになったんですから、キリスト教の歴史上、いえ、ヨーロッパの歴史上でもエポックメイキングな事件でした。

ここまで書けば、なぜ日本の仏教界はいまだにお経を呪文のままにしているのか、その答えがわかると思います。

日本の坊主たちは、お経の意味なんて知ってほしくないんです。意味不明な呪文のままにしておくほうがアリガタミがあるから和訳したくないんでしょう。

よく、「あのお坊さんは声がいいねぇ」なんて言いますが、オペラ聴きに来てるんじゃないんですから、坊主の声なんてどうでもいいです。

たしかに、坊主が3人くらいで読経すると厳かな雰囲気になります。それはいいんですが、肝心なお経の内容が不明じゃ意味ありません。

そもそも、生きてるときに聞いてわからないものを、死んでから聞いてもわかるはずありませんよね。

呪文のことをマントラと言いますが、釈迦はマントラを否定していました。

わけのわからない呪文でごまかすんじゃなく、ちゃんとその人にわかるような話し方をしていたといいます。そのため、同じことでも相手によっては言うことが矛盾していたとも言われています。

釈迦はきっと、正確さよりも肝心なことが伝わればいいと考えていたんでしょう。どんないい説法でも、相手に伝わらなければ意味がないですからね。

大乗仏教では「真言」といって呪文(マントラ)を重視することもありますが(般若心経の羯諦羯諦波羅羯諦とか)、だからといって、すべてのお経を丸ごと意味不明な呪文のようにしておくのはどうなんでしょうね。

今はネットで検索すればお経の意味を知ることができますが、逆に言えば、自分で検索したり解説書を読まないと意味がわからないとも言えます。

「葬式仏教」とか「葬儀屋の下請け業者」と揶揄される日本の仏教界ですが、それだけの言われ方をされるのも当然。

もう、いっそのこと坊主の呪文を聞くために高いギャラを払うのはやめて、自分で日本語に訳されたお経を読んであげるほうが、よっぽど故人に対する供養になるかも知れません。それこそが宗教のグローバル・スタンダードです。

雑記
スポンサーリンク